以前執筆した「ぼっち・ざ・ろっく! 金沢八景編」の記事を作成する過程で、金沢八景の八景図に描かれていた夏島や烏帽子が、現在では埋め立てにより姿が変わってしまったことを知りました。
この点については、別記事でアニメの舞台とあわせて整理していますので、合わせてご覧ください。

調べを進めていくと、その一帯はかつて追浜飛行場が置かれ、現在では日産や住友重機械工業の工場などに姿を変えています。
一方で、飛行場の存在を現在に伝える遺構や展示施設はほとんど残されていません。
現地で追浜飛行場があったことを実感できる場所は本当に失われてしまったのか。そう考えて調べていく中で知ったのが、「貝山地下壕」でした。
「貝山地下壕」は通常は公開されておらず、見学会に参加しなければ内部を見ることができないので、貝山地下壕見学会に参加しました。
追浜周辺に残る戦争遺構について、実際に現地を歩きガイドの解説を聞く機会を得ました。
本記事は、その見学会レポートの前編として、見学会の集合地点でもあり、追浜の歴史を象徴する構造物の一つである第三海堡構造物について整理します。
第三海堡そのものがこの場所に存在したわけではありませんが、東京湾防衛という視点で見ると、この構造物が示す意味は決して小さくありません。
後編では、貝山地下壕そのものに焦点を当てていきます。
まずは前編として、第三海堡から見えてくる東京湾防衛の考え方を見ていきたいと思います。
本記事では第三海堡について以下の項目について整理しています。
・明治期に東京湾防衛のため建設された海上要塞
・浦賀水道の航路上に人工島として建設
・沿岸砲台の射程の空白を補う役割を担った
・現在は夏島都市緑地に構造物が保存されている
第三海堡とは何だったのか
第三海堡とは、明治期から大正期にかけて整備された、東京防衛のための海上要塞の一つです。
「海堡」という言葉はあまりなじみがないですが、海上の人工島に砲台を配置した海上要塞のことを言います。

写真:関東震災後の被災した第三海堡の模型
第三海堡は、単に砲台を設置しただけの施設ではなく、人工的に造成された島の上に地下通路を備えた構造物や大型兵舎、探照灯、観測所などが配置された、本格的な防衛拠点でした。
「第三海堡」と呼ばれる通り、第一海堡、第二海堡も存在しており(第四はありません)、これらは観音崎砲台をはじめとする沿岸砲台とあわせて、東京湾要塞として一体的に構成されていました。以下に東京湾防衛網を一部施設を明示したものを載せます。

出典:国土地理院「地理院タイル(標準地図)」※一部加工
また、第三海堡は自然の島ではなく、海上に人工的に築かれた構造物でした。これは当時の技術力や、それだけの労力をかけてでも東京湾防衛を重視していたことを示しています。
第三海堡を理解するためには、個々の砲や構造の細部を見るよりも、まず「なぜ海に要塞を築く必要があったのか」「東京湾はどのような地形で、どこが防衛上の要点だったのか」という視点が欠かせません。
次の章では、なぜこのような海上要塞が必要とされたのかを、当時の防衛思想と地形条件から整理していきます。
なぜ、海上要塞が必要だったのか
東京湾に海上要塞が必要とされた最大の理由は、沿岸砲台の射程距離にありました。
浦賀や観音崎に設けられた沿岸砲台は、東京湾へ接近する敵艦をいち早く発見し、警戒・監視を行う重要な役割を担っていました。
しかし、当時配備されていた沿岸砲台の有効射程は、3km程度にとどまります。そのため、射程圏外を航行されてしまえば、陸上からの砲撃だけで湾内侵入を阻止することはできませんでした。
実際に浦賀や観音崎に設けられた陸上砲台の跡地から3km圏内を図面に示した以下の地図をみると、沿岸砲台を増設するだけでは、射程の空白を完全に埋めることが難しいという問題があることがわかります。

出典:国土地理院「地理院タイル(標準地図)」※一部加工
こうした状況を踏まえ、防衛の考え方は「沿岸で発見・警戒しつつ、射程の届かない海域をどう補うか」という課題がありました。その解決策として選ばれたのが、海上に要塞を造るということです。
海上要塞は、沿岸砲台の射程によって生じる空白を補い、敵艦により近い位置で圧力をかけるための施設として構想されました。沿岸砲台と役割を分担しながら、防衛を成立させるために、海上要塞は必要とされました。
当時の海上防衛の考え方
第三海堡の着工が開始されたのは、明治25年(1892年)です。この時代は幕末から続いてきた防衛思想が、大きく変化していった時期でもありました。
幕末における海上防衛の基本的な考え方は、「江戸に艦砲射撃をさせないこと」 でした。品川台場が設置されたのは、こうした目的にもとづくものでした。以下に品川第三台場の歴史をイラストとともにAIで作成してみました。

図:AIに品川第三台場の歴史的経緯の図を作成
当時、帆船しかなかった日本から見た外国の蒸気船は、「風待ちせずに運航できる船」と技術力の差を見せつけられたものでした。
アヘン戦争(1840年代)や下関戦争(1863~1864年)を通じて、外国艦隊の軍事力が現実の脅威として突きつけられたことも、こうした認識を強める要因となっています。
明治時代(1868年〜1912年)に入ると、防衛対象が広がります。首都東京だけではなく、軍港や造船所が集中する横須賀をはじめ、東京湾沿岸に集積する港湾施設や物流拠点も、守るべき重要な対象として意識されるようになりました。
一方で、外国船も着実に近代化が進んでいました。
蒸気船や鉄甲艦の存在はすでに知られていましたが、艦砲の射程や破壊力はより具体的に認識されるようになります。
その結果、沿岸に近づかれるだけで、一方的な艦砲射撃を受ける事態が、現実的な脅威として想定されるようになりました。
こうした背景から、品川台場のように陸地近くへ台場を増設して対抗するよりも、東京湾への入口(浦賀水道)で食い止めるという発想が、次第に強くなっていきます。
第三海堡をはじめとする海上要塞は、この防衛思想の転換を具体的な形にした存在でした。
東京湾の地形的条件

出典:国土地理院「地理院タイル(標準地図)」※一部加工
東京湾の地形的特徴を一言で表すなら、「湾口が狭く、S字状に入り組んでいる」点にあります。上記の地図を見ると、湾口部が緩やかに屈曲しながら内湾へ続いていることが分かります。
東京湾へ進入するためには、房総半島と三浦半島の間に位置する浦賀水道を航行する必要があります。この浦賀水道は、最も狭い部分でおよそ幅7km程度しかありません。
防衛の観点から見れば、航路が地形によって制限される地点を押さえることができれば、侵入する艦船に対して効率的に対応することが可能になります。

出典:国土地理院「地理院タイル(標準地図)」※一部加工
沿岸砲台は浦賀や観音崎周辺に集中して設置されている理由の一つは、富津側の水深が比較的浅いことにあります。
『東京湾海堡基礎築設方法及景況取調書』(明治39年8月)によると、第二海堡の水深は最深で12m、最浅で8m。第一海保に至っては最深で4.6m、最浅で1.2mです。
これらの記録から分かるように、東京湾の湾口部では富津寄りの海域は水深が浅く、大型船舶は比較的水深のある浦賀・観音崎寄りを航行せざるを得ません。その結果、主要航路を射程に収める位置として、浦賀や観音崎周辺に沿岸砲台が集中して配置されたと考えられます。
第三海堡が担った役割
第一・二海堡と陸上砲台で、十分であったのかと言えば不十分でした。

出典:国土地理院「地理院タイル(標準地図)」※一部加工
もう一度、上記の図を見てもらうと、第二海堡の砲台しか届かない領域があります。これだと、第二海堡の防衛負担が大きく、第二海堡が機能不全となってしまうと、防衛網に穴が空きます。
そこで必要だったのが第三海堡です。

出典:国土地理院「地理院タイル(標準地図)」※一部加工
第三海堡が設置すると、陸上砲台と第一第二海堡との射程を被せることが出来ます。加えて、敵艦との距離が近くなるので、砲台の命中精度も高まります。
沿岸砲台や他の海堡と組み合わされることで、敵艦を特定の航路へ誘導し、段階的に対応するための防衛網が構成することが可能となります。
第三海堡が建設された位置は、当時の東京湾航路のほぼ中央にあたる場所でした。つまり、防衛施設であると同時に、船が必ず通過する航路上に置かれた要塞でもあったのです。
この配置は防衛上は非常に合理的でしたが、戦後に大型船の航行が増えると、逆に航路の障害となる側面も生まれました。
東京湾口航路整備事業で第三海堡が撤去された背景には、こうした事情もあります。
次の章では、こうした役割を踏まえたうえで、見学会に参加して初めて実感できた第三海堡の意味について整理していきます。
見学会に参加して知った第三海堡
第三海堡遺構は、毎月第1日曜日(1月のみ第2日曜)の10時~16時に、入場無料で一般公開されています。第三海堡遺構のみを見学したい場合は、一般公開を利用出来ます。
※公開日時の詳細や変更については、最新の公式情報をご確認ください。

第三海堡の遺構(建築の残存物)があるのは、横須賀市の夏島都市緑地内です。探照灯、砲台砲側庫(弾薬庫)、観測所の3つの遺構があります。
見学会に参加して感じたのは、第三海堡が「砲台の集合体」ではなく、周囲の砲台群や東京湾全体の防衛が機能するように様々な防衛施設があったことでした。
現地に行くことでその規模感や役割を理解できました。
現地にある遺構
現地には、探照灯、砲台砲側庫(弾薬庫)、観測所の3つの遺構があります。見学会では、これらの遺構を実際に確認しながら、それぞれの役割や構造について説明がありました。
実際にみてみることで、第三海堡がどのような施設があったのかを具体的にイメージすることができます。

探照灯は夜間に敵艦を照らすためのもので、現地には探照灯を設置するための台座が残されています。
探照灯本体は、レールを使って保管場所から台座まで移動させる構造だったと説明がありました。台座に載せた後は歯車などの機構を用いて引き上げ、所定の位置に据え付けて使用していたと考えられているそうです。

砲台砲側庫は、砲弾や装薬などを保管するための施設で、現地には内部の部屋割りが確認できる構造が残されています。見学会では、この建物が鉄筋を用いず、壁やアーチ状の構造によって内部空間を形成している点が特徴として紹介されました。
当時の建築技術としては画期的な構造であり、爆発や衝撃への耐性も考慮されていた可能性があるそうです。

鉄筋を使わずに内側の部屋分けの構造にすること自体、当時としては画期的だったそうです


観測所は第三海堡内に6か所あったとされており、指揮・観測・通信連絡などを担うため、高い位置に設置されていました。
見学会では、内部が円形に囲われた構造になっている点が紹介されましたが、中央部にどのような設備が設置されていたのかについては、現在のところ詳しくは分かっていないそうです。



内部は円形に囲われており、ここに何か構造物があったと思われます。ただ、何が設置されていたのかはよく分かっていないそうです
第三海堡のあったところ
第三海堡のあった位置を地図上で示すと、以下のような位置関係です。


出典:国土地理院「地理院タイル(標準地図)」※一部加工
国土交通省東京湾口航路事務所のHPによると、第三海堡は走水低砲台から2,589m離れており、海底深さ約39mのところに築かれました。高さ39mはビル13階分の高さに相当します。
ちなみにですが、遺構のある夏島都市緑地からは約8,500m離れた位置にあります。
他の海堡と比較しても、かなり水深の深い場所に築かれており、第三海堡が特に厳しい条件下で建設された施設であったことが分かります。以下にそれぞれの海堡の建造時期と海底深さの一覧表を提示しておきます。
表 東京湾海堡基礎データ 国交省東京湾航路事務所HPより抜粋
| 要目 | 第一海堡 | 第二海堡 | 第三海堡 |
|---|---|---|---|
| 着工年月 | 明治14年(1881)8月 | 明治22年(1889)7月 | 明治25年(1892)8月 |
| 竣工年月 | 明治23年(1890)12月 | 大正3年(1914)6月 | 大正10年(1921)3月 |
| 海底深さ 最深 | 4m60cm | 12m | 39m |
| 海底深さ 最浅 | 1m20cm | 8m | – |
水深が深いということは、その分、安定した基礎を海中に築く必要があります。
第三海堡では、まず海中に大量の石材を投入して外周に堤防を築き、その内側に土砂を充填することで人工島の基礎を形成する工法が採られました。以下の図はその基礎構築の過程をイメージしたものです。


図:AIでイメージ図を作成。イメージ的にはこのような方法で築かれたと考えられます。
第三海堡の基礎上部の面積(満潮時)は約26,000㎡で、これはサッカーコートおよそ3.6面分に相当する規模です。これを建造するために使用された材料は、石材が約280万㎥、砂が約54万㎥にも及びます。
これだけの量の資材は、すべて周辺地域から運び込まれたものであり、裏を返せば、それだけの材料が陸地から持ち出されたことになります。第三海堡の建設に用いられた石材は、鷹取山や横須賀市走水周辺、鋸山などで採石されました。



いつか採石したところにも足を運んでみたいと思います
これほどの資材と労力を投入して建設された第三海堡ですが、かつてその人工島が存在した場所には、現在ではその姿をとどめるものは残っていません。
撤去された経緯
第三海堡は、1923年(大正12年)の関東大震災によって大きな被害を受け、要塞施設としての機能を失いました。竣工が1921年3月なので、機能した時期は2年ほどしかありません。



建設にかかった時間の方が長いという皮肉
関東大震災の影響により、第三海堡は地盤沈下を起こし、波浪を受けて暗礁化しました。第三海堡が復旧されなかった背景には、当時すでに艦砲の射程距離が伸び、防衛の考え方そのものが変化していたことがあります。そのため、震災後は再建されることなく、長期間放置されることになりました。
暗礁化した第三海堡は、悪天候時には視認しづらい障害物となり、船舶航行上の危険性が指摘されるようになります。特に戦後は東京湾での貿易が活発化し、浦賀水道航路を通過する船舶は平均して1日700隻以上に増加しました。
その結果、大型船舶にとって衝突や座礁の危険がある存在として問題視され、1974年以降の約26年間で、第三海堡に関連する海難事故が11件発生しています。
こうした状況を受け、大型船舶の安全な航行を確保する目的で、第三海堡の撤去事業が実施されました。
2000年に「東京湾口航路整備事業」として着工し、第三海堡の構造物の撤去、土砂の浚渫が行われました。浚渫により大型船舶が航行できる水深23mまで掘り下げされました。



水深23mまで掘り下げたということは、16mは第三海堡の基礎が残っています
現在、第三海堡の構造物の一部(探照灯・砲台砲側庫・観測所)は、夏島都市緑地で保存され、大型兵舎は横須賀市のうみかぜ公園に保存されています。
保存の経緯
現在、夏島都市緑地に保存されている第三海堡の構造物ですが、最初からこの場所に保存されていたものではありません。
「東京湾口航路整備事業」によって引き揚げられた構造物は、一時的に追浜の臨海部にある東亜建設工業の敷地に保管されていました。
航路整備事業の終了後は保管用地を継続して借りることが難しくなり、このままでは廃棄されるか、再生コンクリートとして再利用される可能性がありました。
実際、第三海堡に使用されていたコンクリートは、現在の基準から見ても非常に品質が高く、再生コンクリート材としての需要も高く、実際に再利用された構造物も少なくありませんでした。
そうした状況の中で、追浜の住民から
「第三海堡の構造物を追浜に残したい」
という声が上がります。
第三海堡の建設には、三浦半島で採れる鷹取石が使用されており、追浜周辺ともゆかりの深い施設でした。
ただし、第三海堡の構造物は巨大なコンクリート構造物であり、分解して移動することが困難です。そのため、起重機船を用いた海上輸送による沿岸地域の移設しか出来ないため、移設地の確保に困難を極めました。


図:AIで起重機船イメージ図を作成。遺構に金具が取付られているのは、このクレーンで吊り上げたため。
その後、国土交通省や横須賀市との協議を経て、夏島都市緑地に保存する方針が決定します。
この場所には
- 貝山地下壕
- 夏島貝塚
- 明治憲法起草遺跡記念碑
といった歴史遺産があり、これらと連携した形で活用することが期待され、現在の場所へ移設されることになりました。
第三海堡は、日本の海洋土木技術の発展を示す貴重な構造物でもあります。浦賀水道という厳しい海象条件の中で人工島を築く工事は当時としては非常に難易度が高く、完成までに約30年を要しました。
こうした技術史的価値も含めて保存されている理由の一つでもあります。
まとめ
第三海堡は、水深39mという厳しい条件のもとに築かれ、膨大な資材と時間をかけて完成した海上要塞でした。そこまでして建設された背景には、近代日本が進めていた海上防衛体制の強化と、東京湾という狭い湾口を持つ地形的特性があります。
しかし、第三海堡は竣工からわずか2年後に関東大震災で機能を失い、再建されることなくその役割を終えました。
やがて東京湾を行き交う船が大型化すると、第三海堡は航路の障害物にもなりました。こうして海中から引き揚げられた構造物ですが、地域の人々の声によって追浜に残されることになります。
軍事施設として始まった第三海堡は、現在では東京湾の歴史を伝える遺構として、夏島都市緑地に保存され、当時の構造や技術を静かに伝えています。現地に立つことで、第三海堡が担っていた防衛上の意義と、その短い歴史の重みを実感することができました。
後編では、見学会のメインイベントである貝山地下壕を取り上げます。
参考文献
- NPO法人アクションおっぱま/おっぱまはっけん倶楽部「追浜の歴史遺産 見学のしおり 東京湾第三海堡遺構物語」(見学会配布資料)、2024年
- 国土交通省 関東地方整備局「浦賀水道航路と中ノ瀬航路」
https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/sea-lane/index2.htm (閲覧日:2026年2月) - 国土交通省 関東地方整備局「東京湾の3つの海堡」
https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/history/index.htm (閲覧日:2026年2月)

